『桃鉄』ブームで振り返る、シリーズの原点『新・桃太郎伝説』が挑んだ“スーパーファミコンの限界” - リアルサウンド 『桃鉄』ブームで振り返る、シリーズの原点『新・桃太郎伝説』が挑んだ“スーパーファミコンの限界” リアルサウンド (出典:リアルサウンド) |
桃太郎伝説シリーズ(ももたろうでんせつシリーズ)は、ハドソンより発売されたコンピュータRPGのシリーズ名。 「桃伝」(ももでん)という略称でも認知されている。同じ作者の別シリーズ『桃太郎電鉄』は「桃鉄」(ももてつ)と呼び、「桃伝」と区別している。 派生タイトルとして、前述のコンピュータボードゲーム 56キロバイト (8,545 語) - 2020年12月25日 (金) 06:09 |
リアルサウンド2021.02.24 07:00
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■ベベルビュウ・マップ
本作のいわゆるワールドマップは当時の一般的なRPGと同様、格子状のマスを動くものであるが、マップの描画はスーパーファミコンの拡大縮小表示機能を用いて手前が大きく奥が小さく表示され、斜め上から見下ろしたような視点になっている。奥にいけばいくほど白いフィルターがかかり空気遠近法でより遠近感は強調され(これもスーパーファミコンの半透明処理によって為せる技だ)、立体的に綺麗なフィールドマップが眼前に展開されるのだ。本作のフィールドマップは世界地図を模しているのだが、ベベルビュウ・マップは地球の球状の丸みをも表現しフィールドの広大さ、そして桃太郎の冒険の壮大さをプレイヤーに強く感じさせることに成功している。
■アクティブ・ウォーキング
RPGで仲間と一緒に行動するパーティーは不可欠な要素だ。一般的なRPGではフィールド上で仲間たちは主人公の後を一列に並んでついてくる。 しかし「新・桃太郎伝説」は仲間になるキャラの個性が強い。常に寝ているため1/16の確率でしか攻撃できないが確実に会心の一撃を繰り出す寝太郎、鍵盤で鳴らす音で攻撃が変わるましら、特定の名前に変えると歩くたびにお金が減る貧乏神ーー。
そんなキャラクターたちが行儀よく桃太郎の後ろに並ぶわけがない。そこで本作ではパーティーの面々がフィールドマップで自由に動き回る「アクティブ・ウォーキング」を採用し、キャラクターによって大人しく付いて来たり自由に飛び回ったりとキャラ付けをしている。進行や戦闘に影響を及ぼすものではなく、移動している間ずっと全てのキャラをバラバラに動*システムのためどこにマシンパワーを割いているんだ、と思うかもしれない。しかしプレイヤーが目にしている時間は長く、ゲームの世界観をプレイヤーに感じさせる大きな効果があっただろう。
■タクティカル・ウェザー・バトル
戦闘に関わるシステムで当時画期的だったのが、天気が影響することだ。キャラクターによって天気の得意不得意があり、ステータスに変化があったり体力(HP)の増減があったり動けなくなったり効果も様々。キャラクターの多様性はここにも現れており、作業的になりがちな戦闘の味付けにもなっている。
ただポケモン等のように天候操作する方法は多くなく戦術に組み込むのは難しい。また得意不得意に偏りがあり「日照り」だとほとんどのキャラが苦手である等バランス面では荒削りに感じる部分もあるのは確か。しかしながらその先進性は評価できるものだった。
他にも様々なシステムがある本作には、ノーヒントの隠しアイテムや隠しスポット(何もないフィールドを調べるとHPとMPが全回復する)も沢山組み込まれているので攻略本を片手にプレイすることを推奨したい。
当時私が持っていたのは『新桃太郎伝説 究極本』という発売から少し経ってから発売された攻略本だった。表紙には「君は『新桃』の60%しか知らない」と力強く書かれており印象に強く残っている。実際、ノーヒントの隠し要素や開発画稿をはじめ、なんとメッセージウインドウの表示方法変更の裏技やデバッグモードの入り方まで書いてあるのだ。煽り文句に偽りなく、確かに究極本であることに間違いはなかった。
ちなみにこの頃の桃鉄の攻略本では「これで君は85%勝てる!!」と謳っており、パーセント表示による煽りがさくまさんのブームだったのかもしれない。なお、残りの15%を教えないのは「さくまが勝てるように(誰だって負けたくない)」からである。
正直、思い出補正ではあるのだが、あの頃の作品には発売される度に新しいことでできる、こんなことまでできるのか、といった驚きがあった。その後現在に至るまで、ゲームの種類は無限に分岐し、マシンスペックもユーザーが認識できる範囲を優に超えた。ゲームシステムは差別化だけを担い、そこに挑戦の意味は失われてしまっているのかもしれない。当然出来ることは増えていて、昔のゲームの方が良いゲームだったというわけでもない。今思い返したり実際にプレイすれば各所にストレスを感じ、クソゲーだと感じてしまうかもしれない。
だからこそ、昔のゲームの思い出は「何が自分にとって面白いのか」をクリアにしてくれる。今から見れば荒削りなゲームの何が刺さったのか。好きと感じるものは何だったのか。そこで育まれたのが価値観であり、現在の自分を形成しているものではないだろうか。そんな自己分析として、懐ゲーを思い返してみてほしい(長文の為全文はリンク先で)