3DO(スリーディーオー)は、 かつて存在したアメリカのコンピュータゲーム開発企業3DO社(The 3DO Company) 同社の提唱したマルチメディア端末規格である3DO規格(3DO system) 3DO規格を満たしたマルチメディア機である3DO端末(3DO Interactive Multiplayer)
33キロバイト (4,703 語) - 2020年5月30日 (土) 00:17



(出典 upload.wikimedia.org)


一般的に「3DO」と言った場合、ゲーム機としての3DO規格端末、とりわけ松下電器産業(現・パナソニック)が北米で1993年、日本で1994年に発売した「3DO REAL」のことを指す。

北米では世界第二位のゲームソフト開発会社であるエレクトロニック・アーツの創始者トリップ・ホーキンスが製作したハードとして、日本では家電メーカーの松下電器産業(パナソニック)が製造したハードとして知られた。

ゲーム機の世代的には、第5世代機の先頭に該当する。ただし、ゲーム機ではなくインタラクティブ・マルチプレイヤーという家電製品の一種として販売された。価格設定の高額さ等もあり商業的には失敗に終わった。


3DO規格
3DO(規格)は、1993年に3DO社が提唱したマルチメディア機、ゲーム機の規格。3DO社は自社ではハードを製造せず、ライセンスを提供した電機メーカーからハードをリリースし、ハードおよびソフトが売れるたびにロイヤリティを徴収するというビジネスモデルをとった。このため複数の会社から機種が発売された。

松下電器は、1993年1月7日から開催された'93冬期コンシューマー・エレクトロニクス・ショーで、3DO本体、ゲームのデモ映像を出展した。


・日本における3DO
日本では1994年3月20日に、スプライトや動画再生能力を持つ32ビットゲーム機の先駆けとして、3DO規格マシン「3DO REAL」を松下電器がパナソニックブランドで発売した。当初の発表された希望小売価格は79800円で、実際には54800円で発売された。日本は3DO端末の世界最大のハードウェアベンダーである松下電器の拠点であり、北米と並ぶ市場となった。松下電器は発売当初、アインシュタインをイメージキャラクターとした「3DO REAL」のプロモーションを盛んに仕掛けた。後に三洋電機からも「3DO TRY」が発売された。

3DO社の方針通り、あくまで情報家電という位置づけで販売し、メーカーもゲーム機ではなく「インタラクティブ・マルチプレイヤー」と称していた。3DOのビジネスモデルから原価以上に販売価格を設定せざるを得ず、他のゲーム機と比べて高価だった。しかもゲームショップなどをメインに販売された競合ゲーム機に対し、3DO REALは松下が持つ家電としての販路を利用して主に販売された。松下電器は地域専門店、いわゆる「ナショナルショップ」での販売も行ったので、メーカーに対する発言力の強いこれらの店が儲かる施策が必要で、競合機のような積極的な値引き販売ができなかった。三洋電機の販売した「3DO TRY」の実売価格は3DO REALと比較して安価だったが、松下よりもさらに販路が弱い三洋の家電の販路を利用して販売されたため、非常に流通量が限られた。このように発売当初の3DO端末は旧来の家電製品のビジネスモデルから脱却できなかった。

日本で発売された初期のゲームソフトの大半はエレクトロニック・アーツ・ビクター(EAV、現:エレクトロニック・アーツ日本法人)らによる「洋ゲー」の日本語版であり、「洋ゲー」を嫌う日本では普及の阻害要因となった。

このように日本発売当初の3DOはハード・ソフト共にゲーマーへのアピールが弱く、その結果、本機が本来持っていた筈の「ゲームに留まらない情報家電」というマシンへの展開がなされず、「単に高いゲーム機」「洋ゲー主流で取りつきにくいマシン」というイメージで一般層に普及しないという悪循環へ陥った。「ゲームに留まらない」という方向性のため多くのゲーム雑誌でも扱いは他のゲーム機と同格ではなく、別枠で便宜的に紹介されるだけだったのも一般への認知度の広がりを阻害した。任天堂の山内溥は、当時開発中の3DOについて、NHKの取材の中でソフトメーカー、流通関係者などから、「発売前から消されることが確定した」と言われており、ユーザーはハードを求めているのではなく、独創的な楽しさをもつソフトであり、自らの意見としても3DOは99.99%駄目だと酷評している[3]。

3DO REALが発売されてから約半年後の11月には「セガサターン」(SS)、12月には「プレイステーション」(PS)という競合機が一気に展開。それに対抗するため、11月にはカプコンからそれまで国内のコンシューマソフトとしては発売されていなかった業務用ヒットタイトル「スーパーストリートファイターII X」が発売され、事実上のキラータイトルとなった[2]。これを機に一気に国内消費者を意識したラインナップへと転換を図り、同時に高額だった本体も設計見直しによる改良機「3DO REAL II」を廉価(44800円)で販売するなど普及戦略を仕掛けた。しかしそれ以上のヒット作が不在で、洋ゲーと国内中小のサードパーティーが開発した版権キャラクターもののタイトルで占めていた3DOは早くも抜かれてしまう。

1995年4月発売の国産タイトル『Dの食卓』のヒットでハードもいったんは上向いた[2]。しかし、これと同年9月末発売のコナミの『ポリスノーツ』[2]以降は知名度の高いキラーソフトを継続的に送り出すことができず再び失速、SS・PSの世界展開開始に反比例して3DOの不振が顕著になった。なお、同年中にコナミからメタルギアシリーズの第三作目として『メタルギア3(仮)』の発売計画が進められるも、阪神・淡路大震災による神戸本社の被災と3DO市場の低迷から事実上凍結となり、1998年にPSの『メタルギアソリッド』と改変のうえ発売された[4]。

3DOでは実写のアダルトゲームの発売が認容された。海外タイトルではポルノ女優の静止画や動画を再生するもの、国産では脱衣麻雀ものや野球拳による脱衣ゲーム類、美少女ゲームが発売されている。再生対応としていたビデオCDはLDと比べ画質が劣ることもあり、日本では専らアダルトビデオ系統の正規タイトルが多かったため、これを逆手に取り、ナイステックのROBOが発売されラブホテルのサービス機器として実用化された。

松下電器は1995年末に3DO規格の権利を買収し、名実共に松下電器のマルチメディア規格となったものの、規格提唱社の撤退はサードパーティーをひるませてしまった。松下電器は3DOが市場から淘汰され始めた1996年になってようやくゲーム機としての3DOの展開に本腰を入れ始め、松下自身がゲーム部門の子会社を設立し、3DOの上位互換を持った後継機「Panasonic M2」の開発を公言した。しかし、確固たるユーザー層を積み上げてしのぎを削り合う状態になったSSとPSの勢いに追いつくことができず、6月には任天堂の「NINTENDO64」(N64)が発売されたことでユーザーの興味はほぼ完全にSS・PS・N64の3機種に絞られ、ユーザーを3DOに振り返らせる術を失い、同年末ころまでには淘汰され店頭から消えていった。

3DO M2のローンチタイトルとしてワープが『Dの食卓2』の開発を表明し、プロモーションビデオも公開され1996年夏に発売予定とされたが、3DOの終息により開発は放棄された。その後、ストーリー構成から作り直し「D2」として1999年12月にドリームキャストで発売されている。

3DOソフトとして製作された一部のタイトルはPSやSSで移植版が発売され、更に『テーマパーク』などのその一部はゲームアーカイブス配信タイトルとなり現在もプレイ可能である。

松下電器は任天堂と提携し2001年にニンテンドーゲームキューブ互換機「Q」によってゲーム機市場に再参入したが、販売台数は低迷し、以後自社製品のゲーム機は発売していない。

Wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/3DO

1 以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします :2019/04/28(日) 18:38:53.338 ID:F0qKuXsj0.net

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【【ゲーム】短命だった『3DO REAL』は発売された1994年当時最先端の3Dポリゴン描写能力を備えた32ビット先駆けハード!アダルトゲームも存在】の続きを読む