セガサターン(SEGA SATURN)は、日本においては1994年11月22日にセガ・エンタープライゼスから発売された家庭用ゲーム機である。一般にはサターンもしくはSSの略称で呼ばれる。発売時の日本での価格は44,800円。本体開発に関わった日本ビクター(後のJVCケンウッド)からはVサターン
71キロバイト (8,782 語) - 2022年1月20日 (木) 11:26



1 muffin ★ :2022/01/30(日) 11:58:37.21

https://news.careerconnection.jp/news/social/130511/

抜粋
かつてビデオゲームが、すべて「ファミコン」と呼ばれていた時期があった。任天堂がファミコン、そしてスーパーファミコンによって、圧倒的なシェアを誇っていたからだ。そんな状況が変わったのは1994年、「次世代ゲーム機」の座をめぐる激しい競争が起きたのだ。

まず1月、松下電器産業は3月に出資する米国3DO社の規格によるゲーム機「リアル」を発売すると発表。続いてソニーも次世代ゲーム機「PSX」を年末に発売すると公表した(『朝日新聞』1994年1月31日付朝刊)。さらにはセガ、NECホームエレクトロニクスは1994年内、任天堂も1995年秋までに次世代ゲーム機の発売を告知していた。

それまで1強だった任天堂は、外部のゲームメーカーに対して厳しい「ルール」を課していた。たとえば、本数制限1年間3?5本、最低生産ロット数当初1万本(後に5千本)、カートリッジの製造を任天堂に委託する、といった条件だ。メーカーにそんな条件を飲ませられるぐらい、当時の任天堂は強かった。1986年の『ドラゴンクエスト』(エニックス)や、1987年『ファイナルファンタジー』(スクウェア)などの超人気シリーズも、任天堂ハードでしか遊べなかった。

格の違いは出荷台数からもわかる。当時の主要ゲーム機の累計出荷台数は、以下のようになっている。
ファミコン 1902万台
スーパーファミコン 1714万台
PCエンジン 584万台
メガドライブ 318万台

PCエンジンやメガドライブでもゲーム史に残るタイトルは多く登場したが、ビジネス面では任天堂には叶わなかった。次世代ゲーム機を開発する各社の目標は、任天堂の牙城を打ち破ることだった。ライバルたちに残されたチャンスは、ごくわずかと思われていた。というのも、この時期、次世代機として開発していたのは軒並み「32ビット機」。これに対し任天堂は「64ビット機」を1995年秋に市場に投入する計画を立てていた。つまり、95年秋までの間に、どれだけ足場を築けるかに、各社の命運がかかっていたのだ。
中略

その状況を見たセガは11月、「セガサターン」を当初より5000円下げた4万4800円で発売した。続く12月、ソニーが「プレイステーション」を3万9000円で発売。いよいよ戦争が本格化したのである。この戦国期、最初に一歩抜け出たのは「セガ」だった。
『宝島』1995年2月22日号には、秋葉原の販売店・メッセサンオーの1994年11月22日?1995年1月20日までの売上ランキングが掲載されている。

ハード
1:セガサターン
2:ネオジオCD
3:プレイステーション
4:スーパーファミコン
5:3DO REAL

ソフト
1:バーチャファイター(セガサターン)
2:真サムライスピリッツ(ネオジオCD)
3:クロックワークナイト(セガサターン)
4:スーパードンキーコング(スーファミ)
5:ゲイルレーサー(セガサターン)

秋葉原でのデータなので、格闘ゲーマー御用達の「ネオジオCD」が上位に来ているが、1994年末時点で既に次世代機の本命はセガサターンか、プレイステーションという状況が生まれていた。理由は、この二つのゲーム機が人気タイトルの確保に成功していたことに尽きる。
中略

サターンvsプレステの争いに終止符が打たれたのは、1996年2月だった。

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